町
埋立地と打狗港の築港は密接な関係があります。1904年築港の時から、港内の土砂を取り除きながら打狗山の土石を周辺の港湾に埋め、先に打狗駐車場から現在の第一ドック「浜線」とその周辺の地域を完成させました。埋立地は鉄道のために使用される以外にも、周辺地域に約16棟の倉庫を新たに建設しました。各棟は七千袋の米と砂糖、全部で約十万袋を蓄えられる程の大きさを備えていました。このことから当時の貨物輸送がとても盛んであったことが分かります。(参照:文化局による依頼、高雄師範大学『高雄市「哈瑪星」歷史研究及其歷史性建築物文史調查計畫』)。鉄道、倉庫と海運を統合してから、貨物輸送の効能と利益が上がりました。それから港湾地域の1908~1912年、第一期の築港や第一号、第二号 埠頭、浅水ドック(第三ドック)や約七万坪の哈瑪星の土地の埋立て(=後の湊町)等が始まりました。埋立地計画は日本商人の浅野総一郎が提出したものであり、鳳山県庁に埋立て申請を提出し、1908年から六期に分けて工事しました。1912年3月に完成しました。埋立地の総面積は67,722坪となりました。浜線沿線の地域は新濱町、その他の大部分は湊町となり、埋立地の一部は山下町、哨船町,田町、塩テイ町、崛江町及び旗後町等になりました。現在の哈瑪星地区は山下町一丁目、新濱町一丁目と二丁目、そして湊町一丁目から五丁目までの地域を指します。当時の都市計画には日当たりと空気循環などの衛生問題を考慮し、山から当時の哨船頭漁港まで道路を延伸し、時計回り32度ずつそれぞれのブロックが区切られました。更にそれぞれのブロックは四面中の三面に日が当たることを原則として整備され、環境を考慮する日本人の知恵を盛り込んだ都市計画となりました。哈瑪星は初めての現代的に区画整理された街であると同時に、打狗地域では初めて水道水、電灯、電信、電力を使う街であり、日本統治時代初期の打狗の政治、経済、文化そして教育の中心地でした。哈瑪星は多くの史跡と歴史的建造物、日本統治時代の建築も残存しています。遺跡修復の他、私達は哈瑪星の歴史的な市街風景の再現により、街、住宅、空間等の文化資源を繋げ、哈瑪星の独特な
歴史を感じさせる生活空間を作ります。